タクボンのお遍路日記

2016年、車で逆打ちで遍路。2017~2018年、休日歩き遍路で結願した時の記録を残しています

79番 奥の院 不動の滝

79番 奥の院 不動の滝

『四国遍路ひとり歩き同行二人【地図編】』に場所は記載されているがルートの記載が無く、行き方が分からなかったので天皇寺の納経所で、奥の院の御朱印を頂いた時に、行き方を教えてもらった。

国道11号金山トンネルから、高松よりに「高松カントリクラブ城山コース」の看板がある場所を曲がる

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未舗装道を50mのところに車を止めて登っていく
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登山道は整備されていて歩きやすい
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不動川沿いを登っていく
この川は天皇寺の参道を横切って瀬戸内海に流れる
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段々、勾配がキツくなってくる
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途中、砂防ダムがあり、さらに30分ほど、自然石の石段をつづら折に不動川沿いに登り切った所に建物が見えてきた。
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下から見えていたのは不動堂
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更に少し登ると滝が見えてきた
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滝の手前には大師像等の構造物が並んでいる
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大師像
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更に進むと見事な岩壁に滝が流れている
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滝行もできそうな感じ。
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滝の脇に石の不動明王坐像
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滝から道は、更に延びて分岐がある
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5分ほど進めば大師修行洞
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左折して登っていくと城山温泉
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不動の滝からの眺め
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大師修行洞の方へ進むと、上の方に何か見えてきた
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大師修行洞に到着
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大師修行洞からの眺め
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79番 天皇寺の納経所で頂いた御朱印
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79番 元札所 白峰宮

保元の乱(1156年)によって讃岐国へ配流された崇徳上皇は、長寛2年(1164年)に崩御するまでの9年間を讃岐で過ごした。上皇崩御後、遺体を当地の清水に浸しておいたところ毎夜この辺りから神光が輝いたことから、二条天皇の宣旨を受け長寛2年(1164年)に造営されたと伝える。後嵯峨天皇の時代には荘園などが施入されている。

江戸時代には崇徳天皇社野沢井宮・崇徳天皇明の宮などと呼ばれ、金華山妙成就寺摩尼珠院と一体の存在として四国八十八箇所の七十九番札所であった。

摩尼珠院は行基が創建し、空海弘法大師)が再興したと伝えられ、崇徳上皇もよく訪れたという。崇徳天皇社が創建されてからしばらく後、後嵯峨天皇の宣旨によりその別当寺となり「天皇寺」と称するようになった。

しかし、明治の神仏分離の折、崇徳院御霊は京都白峯神宮へと戻り、崇徳天皇社は白峰宮となり、天照大神と金山御神体カナヤマビメとカナヤマビコを祀る神社となっている。 また、その時に摩尼珠院は廃寺とされたが、明治20年に筆頭末寺の高照院がその跡に移転し、天皇寺を再興して札所を引き継いだ。現在、白峰宮の三ツ鳥居(三輪鳥居)から社殿に向かう参道の両脇に天皇寺高照院の境内がある。なお、三ツ鳥居には享保19年(1734年)衆力合成惣氏子中と刻まれている。

両側に袖鳥居を持つ「三つ鳥居」と呼ばれる珍しい様式のどっしりとした風格ある構えの鳥居から境内に入ると、手前の敷地の左側に四国88ヶ所霊場79番 天皇寺高照院の本堂と大師堂があり、右側には納経所、参道の正面に白峰宮という当時の神仏習合が色濃く残る配置となっている

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ohenro.prodigal04.site

鳥居から真っ直ぐ進んだ敷地にある白峰宮

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左側には社務所の建物があるが使われてない感じ

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白峰宮の隣のプレハブに宮司宅の案内が貼られていた
自分は、先に天皇寺の納経所で、白峰宮御朱印宮司宅で頂ける事を聞いていたので、訪問してみた
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白峰宮の右側を通り抜けると宮司宅のあり、更に進むと八十場の泉がある
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この泉には、次のような伝説がある。景行天皇の御代、瀬戸内海の大きな悪魚(海賊だといわれている)を征した日本武尊の皇子、讃留霊王(さるれおう)とその88人の兵士が悪魚の毒にあたって倒れたが、この泉の水を飲んで、全員甦ったといい、八十甦(やそば)の水、八十八場の水とよばれるようになった。
別名野沢井ともいわれ、金山の地下水が豊富に湧き出し長い間飲み水として使われ、現在、八十場水ほとりの茶店トコロテンの冷し水にも利用されている。
なお、讃留霊王は古代豪族綾氏の祖とされている。

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宮司宅で頂いた御朱印
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新四国曼荼羅 15番 顕正寺

新四国曼荼羅 15番 顕正寺

山号:藤井山
院号:九品院
宗派:真言宗大覚寺派
本尊:大日如来
ご詠歌
住所:香川県丸亀市土居町2丁目10-9

丸亀城の濫膓は慶長二年に起った。生駒親王が入封し、五年の歳月をかけて完成した。その嫡男一正の代に一国一城制の武家法度によって廃城となる。
顕正寺丸亀城の鬼門除けに建立された。慶長二年(1597)のことである。憶うに、顕は験に通じ、親正の一宇を冠したことに丸亀城との関わりを垣間みた。
生駒氏四代のあとを嗣いだのが山崎家治である。寛永十八年に城を築き、高松藩における西讃の要とした。こうした挙措は松平を名乗る御家門が幸いしたのだろう。
顕正寺も頗る子熾盛した。秘伝の像からそれを窺うことができる。 現在、昔日の跡をとどめていないが、御堂には大日如来を本尊に、不動明王弘法大師像を安置し、他に、愛染明王毘沙門天を合祀していた。ところが最近の調査で古仏とわかり、災害を恐れて本寺の収蔵庫に移し、像の安寧を図ったという。

軽四がギリギリ通れる舗装路を抜け、境内の横の駐車場に車を停めて、境内に入る
あとで分かったのは、こちらは裏手で反対側の方が道は広いという事
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山門
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納経は本堂の中で
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新四国曼荼羅御朱印
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番外札所 金刀比羅宮

神仏習合により真言宗の象頭山 松尾寺 金光院となり、象頭山 金毘羅大権現と呼ばれた。明治維新の際に神仏分離・廃仏毀釈が実施されて、神社本庁包括に属する別表神社、宗教法人金刀比羅本教の総本部となった。全国にある金刀比羅神社、琴平神社あるいは金比羅神社の総本宮である。

海上交通の守り神として信仰されており、漁師、船員など海事関係者の崇敬を集める。時代を超えた海上武人の信仰も篤く、戦前の大日本帝国海軍の慰霊祭だけではなく、戦後の日本特別掃海隊(朝鮮戦争における海上保安庁の掃海)の殉職者慰霊祭も毎年、金刀比羅宮で開かれる。境内の絵馬殿には航海の安全を祈願した多くの絵馬が見られる。金毘羅講に代表されるように古くから参拝者を広く集め、参道には当時を偲ばせる燈篭などが今も多く残る。

「一の坂」を登った先にあるのは「大門」
門の中の両側に弓を持つ武者が控える。これより内が境内で、有栖川宮熾仁親王筆の「琴平山」の額が掲げられる。門をくぐると鎌倉時代から特別に境内での営業を許された五軒の五人百姓が加美代飴を売っている

ここまで365段。

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大門からしばらくは、さっきまでの急な石段がウソのように、なだらかな石畳の道が続きます。
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旭社(重要文化財)
天保8年(1837年)に建立された銅瓦葺の二層入母屋造で、金毘羅大権現時代に金堂だった建物で、全体に多くの美しい彫刻がなされている。
高さ約18m。祭神は天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神。神仏分離以前の松尾寺の金堂であり、そのあまりの豪華さに江戸時代に参拝した森の石松は本堂と誤り、ここへの参拝のみで帰ってしまったと伝えられる。本宮を参拝した後に参拝する習わしである。

ここまでの段数は628段。
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旭社の右手を進むと、ついに最後の難関です。全行程でも最も急角度の石段が133段も続くという苦行のような坂

785段を登り切ると本殿

本殿

1878年再建。桧皮葺・大社関棟造り。
祭神は 大物主神と崇徳天皇を合祀。
写真を取り忘れ

金比羅神社 御朱印

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御本宮と展望台の間には、奥社へ続く道が。奥社まではさらに583段
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常磐神社(祠) - 祭神は武雷尊、誉田和気尊。
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白峰神社(しろみねじんじゃ)本殿

大正2年建造、流造。祭神は崇徳天皇、待賢門院、大山祇神。
随身門 - 白峯寺頓証寺殿の勅額門から明治31年に移された源為義・為朝像
拝殿 - 入母屋造
御守所 - ご朱印あり。
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白峰神社 御朱印

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菅原神社(祠) - 祭神は菅原道真命。
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厳魂神社(いづたまじんじゃ)
奥社と呼ばれ、1368段の石段を登りきった先に鎮座する。戦国時代の別当金剛坊宥盛(慶長18年1月6日没)を明治に入り厳魂彦命として祀った。本殿 - 檜皮葺・流造、明治38年建立
向唐門 - 檜皮葺
拝殿 - 檜皮葺・入母屋造
御守所 - ご朱印あり。
威徳巖 - 社殿に向かって左の岩壁で天狗とカラス天狗の彫物が掛けてある。
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厳魂神社 御朱印

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奥社で買える御守り

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新四国曼荼羅 16番 松尾寺

新四国曼荼羅 16番

山号象頭山
宗派:高野山真言宗
本尊:釈迦如来
所在:香川県仲多度郡琴平町九七三

 金毘羅とは、蛟竜などに訳される梵語「クンピーラ」の音訳で、実際にはワニであり、水神として尊崇された。
開山は大宝年間、神変大菩薩といわれ、その霊験あらたなることが天下に広まり、天平宝宇6年(762年)孝謙帝が勅使藤原実朝を遣わし、殿堂を建立された。
室町時代に至り、「讃岐のこんぴらさん」と全国的に有名になり、中興の開山金光坊宥盛法印に至って,天下の大伽藍となり、大衆進行はますます深くなった。
ところが明治維新神仏分離の際に、排仏の悲運に遭遇し、一山六ヵ院中五院が排され、善門院一坊が山麓の現在の地に移り、法灯を継承している。
室町期の金毘羅大将、鎌倉期の釈迦如来愛染明王南北朝弘法大師等々の諸仏が奉安されている。

絵画では、江戸後期の釈迦涅槃図は縦320×横756cmで横長の涅槃図では類を見ない。李朝の宮廷画家金弘道(ギムホンド)の作とも言われる大作である。

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山門
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本堂
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新四国曼荼羅 御朱印

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73番 奥の院 捨身ヶ嶽

標高481mの我拝師山は、もともと倭斯濃山といった。弘法大師真魚と呼ばれていた7歳のとき、この山に登り、仏門に入って衆生を救済したいという願いがかなうならば霊験を現すよう、もしかなわないのであれば我が身を以て諸仏を供養すると念じて、断崖より飛び降りた。すると紫雲が湧き起こって釈迦如来が出現し、天女が真魚を受けとめた。そして釈迦如来は「一生成仏」と告げた。
願いが成就することを告げられた大師は感激し、釈迦如来の姿を刻んで一宇を建立した。この時、倭斯濃山も我拝師山と改められたと伝えられる。これが73番札所出釈迦寺の縁起である。 

出釈迦寺の境内から西の山の上に、奥の院の建物が見える

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出釈迦寺の脇の道を進んでいくと我拝師山に登る参道がある。

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急勾配の登り坂
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弘法大師御加持水「柳の水」
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ここにも駐車場(この上は鎖が張っているので車では登れないと注意書き)
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まだまだ登り坂は続く
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へんろ道は右
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少しの間、山道
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石灯籠の並び、雰囲気が変わってきた
あと少し
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山門の手前にも駐車場
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山門が見えてきた
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山門の手前に大師像
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山門
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階段の上に鐘楼
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根本御堂は、改修中
お釈迦様が現れたと伝えられる場所。
元はここが出釈迦寺であったが、江戸時代に山麓の現在地に移転した。
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弘法大師が飛び降りたという捨身ヶ嶽禅定は、根本御堂の脇の登山道をさらに登ったところにある。
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かなり急な山道で、鎖をつたって岩を登るようなところもある。
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捨身尊像
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下を覗くと、ちょうど根本御堂の屋根が見える。
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奥の院 御朱印

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新四国曼荼羅17番 仏母院

新四国曼荼羅霊場17番

山号八幡山
宗派:真言宗 醍醐派
本尊:大日如来
所在:香川県仲多度郡多度津町西白方535

 仏母院は、空海弘法大師)の母、玉依御前(たまよりごぜん)の屋敷跡と言われる。
玉依御前がこの地の産土神熊手八幡宮八幡神に祈りここで空海を出産したと言われている。屋敷跡と言われる場所は御住(みすみ)屋敷と呼ばれ現在は仏堂が建立されている。境内には、空海の臍の緒を納めたと言われる「胞衣(えな)塚」がある。また、空海の産湯井戸も残されている。本堂には空海が幼少時に泥土で造ったと伝えられる仏像「童仏」が安置されている。
この地に唐から帰国した空海が寺院を整備し三角寺と名付けたと言われる。熊手八幡宮別当寺院となり山号八幡山とした。
戦国時代の永禄年間(1558年 - 1570年)に戦乱により荒廃した。その後、修験者の大善坊が再興したことから、寺院名も大善坊と称した。 江戸時代前期の寛永15年(1638年)嵯峨御所より「仏母院」の院号を下賜され、寺院名が大善坊から仏母院に改められた。

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新四国曼荼羅 御朱印

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新四国曼荼羅 18番 善性院

新四国曼荼羅霊場 18番

山号:七宝山
宗派:高野山真言宗
本尊:薬師如来
所在:香川県三豊市詫間町詫間3676

荘内半島の頭に位置した詫間は、海岸美に富み、そこかしこに浦島太郎の伝説がある。その昔、政治・経済の中心地として栄えた集落に善性院がある。地元ではセ福即生、走り大黒天の信仰が喧伝されていた。秘仏の像容からだろう。今にも走り出そうとすることから生じた。仏の願意に、神足通ノ願がある。
当寺の開基を行基菩薩という。竜光寺と称し、本尊に薬師三尊を安置する。戦国時代にこの地を領した詫間氏の菩提寺として栄えたが、これもそう長くは続かなかった。修羅没義道を推輓した長曽我部氏の兵火に焼失し、光を放った法城も焦土と化した。栄枯盛衰は世の常とはいえ、あまりの無情に失意したという。再建は江戸期に入ってからであった。
境内に山門、本堂、護摩堂、大黒天堂がある。瞠目したのが内陣の祭壇である。諸尊が唐木の宮殿内に納められている

駐車場から進むと門がある

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本堂で、上がらせて頂いて納経

反対側に山門がありました
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新四国曼荼羅 御朱印

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新四国曼荼羅 20番 延命院

新四国曼荼羅霊場 20番 延命院 勝楽寺

山号:七宝山
院号:延命院
宗派:真言宗単立
本尊:釈迦如来
所在:香川県三豊市豊中町上高野858

当地は上高野城岡と言い、石器時代より肥沃な田園が広がっていた。
古来よりこの岡には、地域の祖先の霊が鎮まり、一体を治めた富豪の墓「延命古墳」が残されている。 又、今より1100年前、菅原道真公は讃岐の国司に任ぜられ、仁和三年に巡察の折り、三野郷が五穀豊穣・風雨順時でとこしなえに栄えんことを祈って、「一」の字を奉納された。
そして、南北朝時代には(城)塁を構えていた。
このように、古来より歴史的に存在価値のある大地である。
当院は弘法大師(空海)に開基で、天正年間、長宗我部元親の兵火にあい灰塵に帰した。その後、再興され天正十五年、国主生駒親正公は讃岐十五カ院(真言宗)を設定、延命院勝楽寺と号され、古刹の保護に努めたと記されている。
正月には七福神(毘沙門天)参りと共に「一字」一願成就ご利益参りも有名である。

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本堂
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新四国曼荼羅 御朱印

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