タクボンのお遍路日記

2016年、車で逆打ちで遍路。2017~2018年、休日歩き遍路で結願した時の記録を残しています

88番 奥の院 胎蔵峯寺

88番 奥の院

本尊:阿弥陀如来

大窪寺の本堂西側にそそりたつ女体山に奥の院があります。
弘仁6年に、唐から帰国した弘法大師が、現在の奥の院にある岩窟で、虚空蔵求聞持法を修法し堂宇を建立。
大師が本尊に水を捧げるために独鈷で加持すると清水が湧き出たと伝えられます。その水を薬とともに服用し、ご利益を受ける人も少なくありません。

女体山の登山道かの分岐から500m程進むと、88番 奥の院 胎蔵峯寺が見えてきます
下に見える小屋が本堂のようですが、中は見ることは出来ませんでした
f:id:prodigal04:20190916192255j:image

お堂の横には2つの祠
f:id:prodigal04:20190916192248j:image
f:id:prodigal04:20190916192251j:image

大窪寺で頂いた奥の院の御朱印
f:id:prodigal04:20190916192259j:image

新四国曼荼羅 9番 玉泉寺、87番 奥の院 萬願大師堂

新四国曼荼羅霊場 9番
87番 奥の院

山号:霊雲山
宗派:天台宗山門派
本尊:日切地蔵菩薩
ご詠歌:もろ人の 願いをかくる 地蔵尊 日切の誓い あらたなりけり
所在:さぬき市造田宮西1022-2

寺伝によれば、平安時代初期の弘仁5年(814年)に空海(弘法大師)が、この地で紫雲の光明を放つ霊石を感じ、地蔵菩薩を安置したのが始まりと伝えられる。空海は、日を限ってこの地蔵菩薩を念じれば功徳があると告げた。

明治時代初期に廃寺となった。昭和5年(1930年)観音寺町(現・観音寺市)にあった玉泉寺を移転合併し復興した。山門は霊芝寺より移転したものと伝わっている。

f:id:prodigal04:20190916192057j:image
f:id:prodigal04:20190916192048j:image
f:id:prodigal04:20190916192033j:image

手水場
f:id:prodigal04:20190916192040j:image

本堂の前には境内いっぱいに藤棚がある。
f:id:prodigal04:20190916192036j:image
f:id:prodigal04:20190916192051j:image

萬願大師堂(奥の院)
大師堂は、本堂の左横の祠であり、中に修行大師石像
f:id:prodigal04:20190916192044j:image

新四国曼荼羅の御朱印

f:id:prodigal04:20190916192333j:image

奥の院の御朱印
f:id:prodigal04:20190916192330j:image

新四国曼荼羅 56番 石見寺、39番 元札所

新四国曼荼羅 56番
四国88ヶ所霊場 39番 元札所

山号:浄瑠璃山
院号:東光院
宗派:真言宗豊山派
本尊:薬師如来
ご詠歌:いくたびも まいるこころは 石見寺(いしみでら) 瑠璃の光も あらたなるらん
住所:高知県四万十市安並4288

往古は四国八十八ケ所霊場の随一であり第39番札所であったが城下に遍路が入るのを嫌い札所を返上したと伝えられる。また、一条氏の時代には、この寺を比叡山延暦寺にみたてた鎮守寺であった。 縁起によれば、創建は大同年間と記されている。旧中村市を一望出来る場所にあり、山内一帯に、ミニ八十八ケ所があり桜の名所である。

かなり急勾配の登り坂を登ったところの駐車場から階段の上に山門
f:id:prodigal04:20190825200117j:image
山門
f:id:prodigal04:20190825200105j:image
立派な本堂
f:id:prodigal04:20190825200229j:image
大師堂
f:id:prodigal04:20190825200121j:image
ぼけ封治榎地蔵
f:id:prodigal04:20190825200114j:image
f:id:prodigal04:20190825200110j:image
f:id:prodigal04:20190825200102j:image
f:id:prodigal04:20190825200145j:image
大師堂
f:id:prodigal04:20190825200059j:image
納経所
f:id:prodigal04:20190825200141j:image

御朱印

f:id:prodigal04:20190831092050j:image

38番 奥の院 白山神社

38番 奥の院

元々、38番 奥の院は、白皇山の山上にあった白皇神社
大正5年に、白山神社と合祀された事で、白山神社が奥の院となった

白皇神社
元来は金剛福寺が創建されたとされる平安時代初期の弘仁13年(822年)に、白皇山真言修験寺として創建された。
現在地の北方にある白皇山(標高433m)の山上にあって、白皇権現を本尊として祀っていた。明治初期の神仏分離令により廃寺となり、白皇神社と称した。
大正5年(1916年)に白山洞門にある白山神社と合祀され現在地に遷座した。以後、足摺岬集落の氏神となっている。

白山神社
もと白山権現と称し、加賀の白山神社から勧請され、白山洞門の上に祀られていた。大正5年(1916年)、白皇権現と合祀され、現在の位置に社殿が造営された。白山神社はもと金剛福寺の守護神の1つで、代々土佐藩主・山内氏の信仰篤く、藩が社の修造に関与したことを示す棟札が金剛福寺に伝わる。また、社宝として桃山時代の作とみられる木造の狛犬一対を所蔵する。 

27号線に面した入口には「白山神社」と書かれた額を掲げる鳥居
f:id:prodigal04:20190825200005j:image

拝殿には「白皇山」という額が掛かっている
f:id:prodigal04:20190825195937j:image

番外札所 月山神社

番外札所 月山神社(守月山 月光院 南照寺)

住所:高知県幡多郡大月町月ヶ丘1443

白鳳時代、役の行者(役小角)が山中で三日月の霊石を発見し月夜見命、倉稲魂命を奉斎したことに始まる。その後、空海(弘法大師)が巡錫し、霊石の前で二十三夜月待の密供を行ったと伝えられている。明治の神仏分離以前は「守月山 月光院 南照寺」と号する勢至菩薩を本尊とする寺であったが、それ以降は月山神社と改称された。
f:id:prodigal04:20190825195753j:image
月山神社
f:id:prodigal04:20190825195743j:image
f:id:prodigal04:20190825195746j:image
社務所
f:id:prodigal04:20190825195758j:image
f:id:prodigal04:20190825195801j:image
月山神社の隣には大師堂
f:id:prodigal04:20190825195739j:image
f:id:prodigal04:20190825195805j:image
f:id:prodigal04:20190825195811j:image
f:id:prodigal04:20190825195750j:image

新四国曼荼羅 55番 鳳彩寺

山号:栄松山
宗派:曹洞宗
本尊:如意輪観世音菩薩
ご詠歌:父母の恵みも深き 鳳彩寺参りて拝む南無観世音
住所:高知県宿毛市小筑紫町伊与野474

宿毛湾を臨み、南へ下った小筑紫の山麓天満宮がある。延喜元年(901)大宰府に配流となった菅燥道真公が漂着した。この勝緑に因んで社殿が造営された。地名の由来も筑紫野に依るという。
国道に沿った部野の集落に鳳彩寺がある。観音信仰を皷吹し、寺門興隆の萌芽が窺えた。地方にあって曹洞禅提唱の道場である。
寺号の起りは群馬県という。中世に高知市内へ移り、初代山内可氏の代に宿毛の地を与えられたようである。理由は定かでないが、始祖・伊賀氏の緑に依るものか,伊賀氏は美濃の豪族であった。道元禅師に帰依し、影のカとなった。可氏はその後胤で、山内一豊の甥にあたる。宿毛一国を支配した。
鳳は稀瑞の霊鳥、羽をひろげた彩は仏法の華である。境内にそれを見た。竃ノ神、荼枳尼天如意輪観音を勧請し、中尊に釈迦牟尼如来を安置する。そして、仏の庭に百日紅が咲いていた

鳳彩寺までの道は、かなり狭かった
境内まで来るまで上がれるので、一度、山門から出て写真を撮った

f:id:prodigal04:20190825195641j:image
本堂
f:id:prodigal04:20190825195639j:image
本堂の中
f:id:prodigal04:20190825195649j:image

御朱印

f:id:prodigal04:20190831091957j:image

新四国曼荼羅 10番 自性院

正式名:微雲窟 自性院 常楽寺
宗派:真言宗善通寺派
本尊:不動明王
住所:香川県さぬき市志度1105

志度寺塔頭である自性院の御本尊は不動明王であるが、正面は弘法大師をまつっている。
これは、本堂の場所は、元志度寺の御影堂の跡とも伝えられている。
自性院は、天正年間に志度に来往し繁栄した摂津兵庫県の豪族多田和泉守一族の創建になる。
さぬき良寛さんと呼ばれている竹林独雄上人は、天明4年(1784)に第七代目の住職となった。
上人は、人に衣食を分け与え、子供ともよく遊び、蟻を踏まなかったり、蚊に自分の血を供養したりした。
また、純無垢な上人の書画にも見るべきものがある。
平賀家は自性院の檀家である。源内さんは本草学薬草研究の他に、エレキテル、火浣布、平線儀、寒熱昇降器等の創製、鉱山開発、西洋画、陶法伝授等でも有名である。

86番 志度寺の山門の手前の参道の左側に新四国曼荼羅 10番 自性院はある

f:id:prodigal04:20190818224129j:image
f:id:prodigal04:20190818224126j:image
f:id:prodigal04:20190818224134j:image

自性院の御朱印

f:id:prodigal04:20190824160424j:image

86番 奥の院 地蔵寺

山号:如意山
院号:文殊院
本尊:文殊菩薩
宗派:真言宗善通寺派
所在地:香川県さぬき市志度545
ご詠歌:ももたびも もおでおがめよ じぞうでら 大悲のちかい ふかきしどうら

志度寺を建立した凡園子(おおしそのこ)尼により飛鳥時代に創建されたとされる。

また、寺院には下記の伝承も残っている。景行天皇の時代、日本武尊の子(または弟)讃留霊皇子(さるれおうじ)が天皇より土佐の海で船を襲い人を食して暴れる大魚の退治を命じられた。これを知った大魚は瀬戸内海に逃げ込み志度浦に隠れた。これを見つけた霊子の軍は攻撃を行ったが一同は大魚に飲み込まれた。霊子は一計を案じ、もろともに飲み込まれた軍船に火を着け大魚を退治した。後に、里人は大魚の祟りを恐れ、魚霊堂(うおみどう)と呼ばれる小堂を建立し地蔵菩薩を祀ったという。地蔵寺の名はこれに由来する。

戦火など幾たびも火災に遭い寺院は荒廃した。江戸時代中期の1729年(享保14年)密英が本堂を再建し、寺院が現在の形に整えられた。密英は「日本廻国六十六体尊」も設けた。中世に日本全国六十六カ国の神社仏閣を巡る日本一長い道のりの巡礼があった。これに因み密英が設置したものである。

85番 八栗寺から86番 志度寺に向かう遍路道の途中にある86番 奥の院 地蔵寺

歩き遍路の時は立ち寄る時間が無かったので、改めて訪問
駐車場は地蔵寺の東の大きな駐車場の一角が地蔵寺の駐車場になっていた

f:id:prodigal04:20190818231833j:image

山門の正面に本堂
f:id:prodigal04:20190818231838j:image

右側に大師堂
f:id:prodigal04:20190818231841j:image
f:id:prodigal04:20190818231851j:image

地蔵寺で頂いたパンフレット

f:id:prodigal04:20190822204501j:image
f:id:prodigal04:20190822204457j:image
f:id:prodigal04:20190822204505j:image
f:id:prodigal04:20190822204509j:image

奥の院の御朱印
f:id:prodigal04:20190818231828j:image

新四国曼荼羅 11番 田村神社、83番 元札所、讃岐国一宮

新四国曼荼羅 11番 田村神社
83番 元札所

正式名:讃岐国一宮 田村神社
主祭神:倭迹々百襲姫命

倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)
五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)【別名 吉備津彦命(きびつひこのみこと)】
猿田彦大神
天隠山命(あめのかぐやまのみこと)
天五田根命(あめのいたねのみこと)
を祭神とし、これを「田村大神」と総称する。

田村大神については、中世の書物では猿田彦大神や五十狭芹彦命のこととされ、近世には、神櫛別命・宇治比売命・田村比売命・田村命など様々で一定していない。社伝創建前は井戸の上に神が祀られていたことから、元々は当地の水神であったとする説もある。

社伝によれば、はじめは現在の奥殿の下にある定水井(さだみずのい)という井戸にいかだを浮かべて、その上に神を祀っていたが、和銅2年(709年)に行基によって社殿が創建されたという。
当初は義淵僧正によって大宝年間に開基された一宮寺と同一視(建物も同じ)されていたが、延宝7年(1679年)に高松藩主であった松平氏により分割された。後に一宮寺は別の地に移された。
延長5年(927年)に『延喜式神名帳』により名神大社に列格され、平安時代末から讃岐国一宮となった。明治4年(1871年)に国幣中社に列格した。

毎週日曜の午前中に朝市が開かれており、社脇の建物では讃岐うどんの店が開かれる。讃岐うどんは香川県の特産・観光資源として有名であるが「田村神社日曜朝市の讃岐うどん」は県内でも珍しい「神社で食べるうどん」として知られている。

さすが一宮だけあって境内は、かなり広い

表参道にある随神門

f:id:prodigal04:20190818223927j:image

大鳥居の向こうに本社拝殿
f:id:prodigal04:20190818223920j:image

本社拝殿
本社拝殿・奥殿は宝永7年(1710年)の造営で、春日造。奥殿は二重構造で前方は本殿に接続していて、神座があり、その床下に「定水井」と呼ばれる深淵がある。なお、現在、奥殿には垣根で近づくことができず鬱蒼と茂った木々でほとんど見ることはできない。拝殿は明治10年の再建で、入母屋造。
f:id:prodigal04:20190818223924j:image

新四国曼荼羅の御朱印
f:id:prodigal04:20190818223917j:image

新四国曼荼羅 14番 観音寺

山号:綾艮山
宗派:真言宗御室派
本尊:十一面観音菩薩
ご詠歌:誓ひおば 千尋の海に たとふなり 露もたのまば 数に入りなむ
住所:香川県坂出市高屋町879

観音寺は、崇徳上皇の菩提を祈るお寺で、本尊十一面観音は上皇生前の御念時仏

五色台山麓、坂出側からの登山口にある鳥居の向こうに高家神社(血の宮)
f:id:prodigal04:20190818225212j:image

f:id:prodigal04:20190818225236j:image
随神門
崇徳天皇 高家神社」の額が架かっている
f:id:prodigal04:20190818225229j:image
階段の上が高家神社の拝殿
古代、高家首の一族がこの地に住み、その祖神・天道根神を勧請して氏神として祀ったことに始まり、依って「高家神社」と称していた。
長寛2年(1164)讃岐に流刑された崇徳天皇薨去されたとき、棺を白峰に運ぶ途中、高屋村阿気の地に御棺を休め奉った時、俄に風雨雷鳴があり、御棺の臺石とした六角の石に血が少し滴り落ちていた。
葬祭の後、村人は畏んで天皇の神霊をこの社の相殿に奉斎し、その血の滴った臺石を高家神社社内に納めたのが、この社が「血の宮」と称される由縁。
f:id:prodigal04:20190818225225j:image
高家神社の境内の手前、左側に観音寺の山門
山門の向こうに見えるのが本堂
f:id:prodigal04:20190818225221j:image
本堂
f:id:prodigal04:20190818225240j:image
f:id:prodigal04:20190818225250j:image
ちょっと珍しい三面大黒天が祀られており大黒堂の前衛の天井には見事な龍の絵が描かれている
f:id:prodigal04:20190818225247j:image
f:id:prodigal04:20190818225218j:image
新四国曼荼羅御朱印
f:id:prodigal04:20190818225244j:image