タクボンのお遍路日記

2016年、車で逆打ちで遍路。2017~2018年、休日歩き遍路で結願した時の記録を残しています

上野国 一之宮 貫前神社

上野国 一之宮
主祭神:経津主神(ふつぬしのかみ)、姫大神(ひめおおかみ)
住所:群馬県富岡市一ノ宮1535

貫前神社(ぬきさきじんじゃ)は群馬県富岡市一ノ宮に鎮座する1,400年の歴史を持つお社。
御祭神は「経津主神」と「姫大神」で、現在の社殿は3代将軍徳川家光公の命によって建てられた。
江戸時代初期の漆塗りで極彩色の社殿は国の重要文化財に指定されている。
また、年間祭儀が71回あり御戸開祭(みとびらきさい)や鹿占神事(しかうらしんじ)など古くからの祭儀が数多く残るのが特徴。

登り坂の参道の階段を登ったところに大鳥居が見える
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大鳥居
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大鳥居から少し緩やかな登り道を進むと総門がある。
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総門から石段を下った場所に社殿がある「下り宮」
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本殿、拝殿、楼門、回廊は、江戸幕府第3代将軍徳川家光による寛永12年(1635年)の造営。
元禄11年(1698年)、第5代綱吉による大規模な修理で極彩色の漆が塗られ、現在の華麗な造りとなった。

楼門
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拝殿
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拝殿の奥に本殿
単層2階建てで「貫前造」と呼ばれる独特な造りである。
また、内部は2階構造になっていて上段に神座が据えられいる。

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本殿の上部に、稲含山に向けて「雷神小窓」が設けられている。
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本殿の裏側
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藤大杉
本殿の裏にそびえ立つ樹齢1200年の巨杉。

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平将門討伐に出征した藤原秀郷が、戦勝祈願で年齢と同じ36本の杉を奉納したうちの1本とされる。
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楼門の外にある「月読神社」
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御朱印
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「一の宮巡拝会」の御朱印帳の残念なところ

一之宮参拝のきっかけ

仕事で全国にある自社ビルに出張する機会が多く、今回、出張予定の埼玉で1日休暇を取得する事になったので、埼玉の観光地を調べていると、支店のすぐ近くに武蔵国一之宮 氷川神社があるのを初めて知って、ビックリ。

氷川神社のある大宮公園や氷川神社の参道は歩いた事はあったが、まさか一之宮とは。

一之宮とは

一之宮とは令制国で最も社格の高いとされた神社の事で、諸国において由緒の深く信仰が篤い神社であり、開拓神として土着の神が祀られている事が大半。
古代から土着の神として最も崇敬された神社が必然的に一之宮となっている。
律令制において国司は任国内の諸社に神拝すると定められていた。
そのため一之宮の起源は国司が巡拝する神社の順番にあると云われいて、国司が赴任後に一番最初に神拝していた神社が一之宮であった。
律令制崩壊の後も、その国の第一の神社として一之宮の称号は使われ続けた。
通説では十一世紀から十二世紀にかけて成立したとされる。
一之宮巡拝の歴史は、江戸時代前期の神道家・橘三喜が、延宝三年(1675)から元禄十年(1697)まで、23年かけて全国の一之宮に参拝し、その記録を『諸国一宮巡詣記』全13巻として著した事が知られている。

一之宮を参拝してみようかな

四国八十八ヶ所霊場の流れで、四国の一之宮(大山祇神社・田村神社・大麻比古神社・土佐神社)は、参拝済み。

その他の自社ビルの周りに自社ビルがあるか調べてみると、他にも支店から、少し足を伸ばせば参拝できる一之宮が数ヶ所有る事が分かり、一之宮巡りをしてみようかと思い、専用の御朱印帳を探してみた。

一之宮専用御朱印帳

一之宮専用の御朱印帳を販売しているところは少なく「全国一の宮会」、「全国一の宮巡拝会」、「一の宮巡拝会」で販売していた。

全国一の宮会:11×16cm(A6版)、1,000円

全国一の宮巡拝会:18×26cm(B5版)、5,170円

御朱印 | 一の宮とは | 一の宮巡拝会:18×26cm(B5版)、15,000円と7,000円の2種類

自分は、B5版の大きい御朱印帳の方が好みで、B5版の安価な「全国一の宮巡拝会」が販売している御朱印帳にしようかと思ったが、どうも、この御朱印帳、ツルツルの紙質で墨を吸わないとの情報があり、和紙を使用している「一の宮巡拝会」が販売している四国和紙の御朱印帳(7,000円)に決めた。

購入についてのお問合せ | お問い合わせ | 一の宮巡拝会

注文は、上のリンク先のフォームから行えた。
支払は、商品と一緒に届く郵便振込用紙での振込のみ。

一の宮巡拝会 御朱印帳

フォームから注文後、1週間程度で、商品が届いた。

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中のページには各一之宮の名前と御祭神が印刷されている。
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残念なところ その1

ただ、この御朱印帳、何点か残念なところあった。

まず、100ペーシ以上ある御朱印帳にしては、かなり薄く華奢。
表紙と裏表紙が、写真のようにペラペラ。
また、和綴じの紐が細い。
気をつけて扱わないと、表紙の端のほうが折れたり、紐が切れたりしそうで怖い。
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ちなみに、四国八十八霊場の納経帳の表紙は、厚みがあり、曲がらない物しか見た事がない。
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「一の宮巡拝会」の御朱印帳の厚みはこんな感じ。
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納経帳は、こんな感じ
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残念なところ その2

もう一つの残念なところ

四国八十八ヶ所霊場の納経帳は、そこそこの金額になると、墨の裏移り防止の為に、下の写真のような「中入れ製本」「三重折り」と呼ばれる袋状になった和紙の間に、もう一枚、和紙が挟まれている物が多い。
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しかし「一の宮巡拝会」の御朱印帳は、7,000円もするが、和紙が袋状になっているだけで中入れの和紙は無い。
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氷川神社で御朱印を頂いた時、何度も墨をつけながら丁寧に書いて頂いたが、自分の中では、墨が裏移りするのでは無いかと不安を感じていた。
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自宅に帰って、御朱印帳を確認してみると、やっぱり墨が裏ページまで染み込んでる。
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表裏のページの間に空間を作って確認すると裏のページには、墨が・・・
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全国一之宮専用の御朱印帳は、あまり選択肢が無いため、今回購入した「一の宮巡拝会」の御朱印帳が自分には一番合っているが、金額の割に品質的に、今ひとつだったというのが、今回の印象。

代用するなら

これまで、四国八十八ヶ所霊場巡りで愛用している「高知製本」さんの100ページ以上ある御朱印帳で代用した方が良かったかなと 思っている。

 

 

 

阿波国 一之宮 大麻比古神社

阿波国 一之宮

御祭神:大麻比古大神、猿田彦大神
住所:鳴門市大麻町板東字広塚13

社伝によれば、神武天皇の御代、天太玉命の御孫の天富命が阿波忌部氏の祖を率いて阿波国に移り住み、麻・楮の種を播殖してこの地を開拓、麻布木綿を生産して殖産興業と国利民福の基礎を築いたことにより祖神の天太玉命(大麻比古神)を阿波国の守護神として祀ったのが当社の始まりだと言う。

『日本三代実録』貞観元年(859年)1月27日の条によれば、当社は従五位下から従五位上へ神階が陞叙されている。
『日本三代実録』の記事によれば、さらに当社は貞観9年(867年)4月23日の条で正五位上、元慶2年(878年)4月14日の条で従四位下、元慶7年(883年)11月1日の条で従四位上に神階を進めている。延長5年(927年)には『延喜式神名帳』により式内社、名神大社へ列格された。

平安時代から鎌倉時代にかけて、神仏習合思想に基づき神社を実質的に運営する神宮寺が各地で置かれたが、『諸国一の宮』では四国八十八箇所の1番札所 霊山寺が当社の神宮寺であったと述べている。
しかし、『中世諸国一宮制の基礎的研究』では、別当寺は不詳であるとしている。

『朝野群載 巻6』には、神事に過穢があったことにより阿波国の大麻神が祟り給うたので、使者を遣わし中祓いを科して祓い清めるべしとの承暦4年(1080年)6月10日付けの神祇官奏上が記載されている。

室町時代に成立したとされる『大日本国一宮記』には当社が阿波国一宮として記載されているが、『中世諸国一宮制の基礎的研究』では、南北朝時代に、伝統的な社格を誇り細川氏の守護所にも近かった当社が、敵対勢力であった一宮氏が神主を世襲していた一宮神社に代わる新たな阿波国一宮としての地位を得ることになった、と考察している。

『全国一の宮めぐり』によれば室町時代には細川氏や三好氏、江戸時代には徳島藩主蜂須賀家の庇護を受けたとしている。また、享保4年(1719年)には最高位の正一位の神階が陞叙されている。

明治6年(1873年)に国幣中社へ列格し、明治13年(1880年)に本殿以下が国費を持って造営された。

第2次世界大戦後に旧社格が廃止された後は神社本庁が包括する別表神社となり、昭和45年(1970年)には氏子崇敬者の寄進により祝詞殿・内拝殿・外拝殿が築造された。

 

四国八十八ヶ所1番札所霊山寺から5分ほど歩けば、、平成14年に再建された立派な大鳥居に到着し、ここから大麻比古神社境内までは、緑の続く参道を歩いてさらに10分ほど

長く続く参道
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↓祓川橋
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↓拝殿
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↓大楠f:id:prodigal04:20200118151115j:image

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↓御朱印
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新四国曼荼羅 2番 長谷寺

新四国曼荼羅 2番

山号:豊山
宗派:高野山真言宗
本尊:十一面観音
住所:徳島県鳴門市撫養町木津1037-1
ご詠歌:いくちよも めぐみかわらぬ とよやまに ひかりかがやく のりのあさひは

四国一番霊山寺に通じる撫養街道に面している。
関西から鳴門に着いたお遍路さんたちは、旅の無事を長谷寺の観音さまに祈ってから、一番札所に向かったという。
境内のどまんなかに、あたりを睥睨するように巨大ないちょうの木がはえている。夏には大きな木陰で、秋には鮮やかな色づきで、参拝者の体と心を和ませてくれる。

寺の歴史は、文明12(1480)年、船戸左衛門尉が大和の長谷寺から本尊を勧請したことに始まる。
慶長三年(一五九八)、徳島藩主蜂須賀家政により駅路寺の指定を受け、隆盛を迎える。

境内には駅路寺の石碑や、焦門六世の道阿の句碑があり、長い石段を登ると、金毘羅神社。ここからの眺望は絶景である。

歴史
・1480年 船戸左衛門尉次正によって長谷寺が創建。
・1582年 長宗我部元親が阿波国を攻め、そのときに長谷寺は灰燼に帰したと伝えられている。
・1601年 撫養城主・益田大膳によって本堂(方丈)が再建。
・1995年 イチョウの木が鳴門市天然記念物に指定。

↓入口の向こうにイチョウの木
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↓大日殿
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↓大日殿の内部
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↓本堂
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↓御朱印
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新四国曼荼羅 3番 不動院

新四国曼荼羅 3番

山号:海辺山
宗派:高野山真言宗
本尊:不動明王
住所:徳島県板野郡松茂町広島字宮ノ後

不動院は国道から直ぐの所に在る。境内に隣接して春日神社を興し、瞭らかに神仏習合の祈りを伝えていた。
寺史は次のようである。
後西院天皇の御世。寛文年間(1661)僧宥真が当地巡錫の際、三好長治公の念持仏であった不動明王を本尊に安置。家老、秦野助太夫の子成長の願により一寺を建立した。
また、明治三十四年に成田山のご分身を勧請し"身代り不動"の信仰を集めた。除災招福の霊験は著しく、檀信徒の帰依を篤くして現在に至っている。

新築なった本堂の優美さに刮目。その脇に宝塔と石仏、他に観音堂を構えるが、一山の象徴を龍宮門にみた。法灯赫嘩な精舎である

↓鐘楼門
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↓本堂
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↓不動堂
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↓横にある春日神社
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↓御朱印
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新四国曼荼羅1番 東林院、1番 奥の院

1番 奥の院
新四国曼荼羅1番
阿波北嶺薬師霊場第十六番札所
種蒔大師

山号:八葉山
院号:東林院
寺号:神宮寺
宗派:高野山真言宗
本尊:薬師如来、愛染明王
住所:徳島県鳴門市大麻町大谷字山田59
御詠歌:種蒔きし 稲穂みのりて 栄えゆく 大師の恵み 仰げもろびと

寺伝によれば奈良時代の天平5年(733年)に行基によって建立されたと伝えられている。
かつては、薬王寺・太龍寺・鶴林寺・隆禅寺・神應寺・瑞川院・荘厳院と並ぶ阿波国八門首(阿波八本寺)の一寺院に数えられ、末寺16か寺を持つ大寺であった。
平安時代前期の大同3 - 4年(808年 - 809年)に空海(弘法大師)がここを訪れ、住民に真言の教えを伝えるとともに農業振興を奨励したと言われる。伝承によれば、空海自ら鍬を取り米・麦の種を蒔き、災害の調伏を行ったとされ、これにより当寺院は「種蒔弘法大師」と称されるようになった。
江戸時代前期の元禄13年(1700年)前後に大火に遭い伽藍の大半を焼亡した。これ以後、寺院は縮小した。
昭和59年(1984年)に本坊が新築された。なお、本坊の本尊は愛染明王、本堂(薬師堂)の本尊(札所本尊でもある)は薬師如来だが、当寺の信仰上の中心は本堂よりひと回り大きい大師堂の弘法大師(種蒔大師)である
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↓本堂
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↓大師堂
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↓滅悪不動尊
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↓御朱印(奥の院)
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(新四国曼荼羅)
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新四国曼荼羅 4番 潮明寺

新四国曼荼羅 4番

山号:海門山
宗派:高野山真言宗
本尊:十一面観音
住所:徳島県鳴門市鳴門町土佐泊浦字高砂22

潮明寺は、渦潮で名高い鳴門の海岸近くの静かな環境の中にある。
潮明寺の本尊は十一面観世音菩薩で、永禄5年6月18日、鳴門海中より出現した尊像で奈良時代の作と伝えられている。
境内には、鳴門市史跡の、紀貫之の土佐日記の中の和歌「年ごろを住みし所の名にしおえば 来よる波をもあわれとぞ見る」の歌碑が二基ある。
また、昭和35年に、大師さまの彫刻が彫られた銀杏の大木があり、地域の方の信仰の対象となっているが、銀杏の木の成長と共に、お大師さまのお姿がだんだん中に入られかくれてしまわれるのではと危惧されている。
また、境内の奥の墓地には、阿波水軍の土佐泊城主森志麿守の観音開きの扉がついたお墓もある。

↓方丈
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↓本堂
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↓御朱印
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新四国曼荼羅 5番 長寿寺

新四国曼荼羅 5番

山号:丹照山
宗派:高野山真言宗
本尊:阿弥陀如来
住所:徳島県鳴門市北灘町粟田字東傍示276

瀬戸内海に近い北灘の里に長寿寺がある。古くは葛城神社の杜僧を務めていたが、明治の神仏分離によってその職を断たれた。一言主神の御霊魂を祀る香華寺である。
寺仁は次のように記す。一言主命が当地に御滞留・遂に逝去あそばされるを随従の下臣等、悲痛の余り、草庵を結び、命を祭れるに由来する。
寛永年間二六二四)増泉上人が弘法大師の夢告をうけ、阿弥陀如来を本尊に堂宇を建立。丹照山長寿寺と号す。
その後、火災のため焼失、当地に移り、増宥唯法の中興の祖ありて現在に至る。

↓山門
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↓本堂
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↓大師堂
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↓御朱印
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新四国曼荼羅 6番 葛城神社

新四国曼荼羅 6番

主祭神:一言主神
住所:徳島県鳴門市北灘町粟田字池谷2

天円山南北麓に鎮座
天喜年間(1053年-1058年)に創建
天智天皇が阿波国から大和国へ向かう際、当地で落馬し目を負傷、粟田の地で療養したと伝わる。祭神の一言主神は目の神様として知られ、境内には「御神水」と呼ばれる目の治療にご利益がある井戸がある

↓鳥居
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↓めがね塚、包丁塚
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↓めがね塚
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↓御朱印
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新四国曼荼羅 7番 白鳥神社

新四国曼荼羅 7番

主祭神:日本武尊
住所:香川県東かがわ市松原69

能褒野(三重県亀山市)で戦死し葬られたのち、白鳥となって飛び去った日本武尊の霊が舞い降りた、という伝説が残る。当地に降りた白鳥は間もなく死んだため、日本武尊の子である武鼓王が廟を建て手厚く葬ったという。白鳥神社はこの時に始まるとされている。

寛文4年(1664年)に高松藩初代藩主・松平頼重が朱印地200石を当社へ寄進して再興、以後は天領となった。明治5年(1872年)に県社に列格される。

鳥居
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↓一の門
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↓その奥に鶴門
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↓拝殿
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↓御朱印
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