タクボンのお遍路日記

お遍路の事を綴っていきます

79番 元札所 白峰宮

保元の乱(1156年)によって讃岐国へ配流された崇徳上皇は、長寛2年(1164年)に崩御するまでの9年間を讃岐で過ごした。上皇崩御後、遺体を当地の清水に浸しておいたところ毎夜この辺りから神光が輝いたことから、二条天皇の宣旨を受け長寛2年(1164年)に造営されたと伝える。後嵯峨天皇の時代には荘園などが施入されている。

江戸時代には崇徳天皇社野沢井宮・崇徳天皇明の宮などと呼ばれ、金華山妙成就寺摩尼珠院と一体の存在として四国八十八箇所の七十九番札所であった。

摩尼珠院は行基が創建し、空海弘法大師)が再興したと伝えられ、崇徳上皇もよく訪れたという。崇徳天皇社が創建されてからしばらく後、後嵯峨天皇の宣旨によりその別当寺となり「天皇寺」と称するようになった。

しかし、明治の神仏分離の折、崇徳院御霊は京都白峯神宮へと戻り、崇徳天皇社は白峰宮となり、天照大神と金山御神体カナヤマビメとカナヤマビコを祀る神社となっている。 また、その時に摩尼珠院は廃寺とされたが、明治20年に筆頭末寺の高照院がその跡に移転し、天皇寺を再興して札所を引き継いだ。現在、白峰宮の三ツ鳥居(三輪鳥居)から社殿に向かう参道の両脇に天皇寺高照院の境内がある。なお、三ツ鳥居には享保19年(1734年)衆力合成惣氏子中と刻まれている。

両側に袖鳥居を持つ「三つ鳥居」と呼ばれる珍しい様式のどっしりとした風格ある構えの鳥居から境内に入ると、手前の敷地の左側に四国88ヶ所霊場79番 天皇寺高照院の本堂と大師堂があり、右側には納経所、参道の正面に白峰宮という当時の神仏習合が色濃く残る配置となっている

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鳥居から真っ直ぐ進んだ敷地にある白峰宮

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左側には社務所の建物があるが使われてない感じ

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白峰宮の隣のプレハブに宮司宅の案内が貼られていた
自分は、先に天皇寺の納経所で、白峰宮御朱印宮司宅で頂ける事を聞いていたので、訪問してみた
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白峰宮の右側を通り抜けると宮司宅のあり、更に進むと八十場の泉がある
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この泉には、次のような伝説がある。景行天皇の御代、瀬戸内海の大きな悪魚(海賊だといわれている)を征した日本武尊の皇子、讃留霊王(さるれおう)とその88人の兵士が悪魚の毒にあたって倒れたが、この泉の水を飲んで、全員甦ったといい、八十甦(やそば)の水、八十八場の水とよばれるようになった。
別名野沢井ともいわれ、金山の地下水が豊富に湧き出し長い間飲み水として使われ、現在、八十場水ほとりの茶店トコロテンの冷し水にも利用されている。
なお、讃留霊王は古代豪族綾氏の祖とされている。

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宮司宅で頂いた御朱印
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